呼吸鎖複合体Iの電子トンネル移動 [1]

呼吸鎖複合体I

Respitatory Complex I

呼吸鎖複合体I(NADHデヒドロゲナーゼ (ユビキノン))は,電子伝達系で主要な役割を果たし,老化現象やパーキンソン,アルツハイマー病の原因としても知られている.

呼吸鎖複合体Iは,電子を NADH から補酵素 Q まで7つの鉄/硫黄クラスターに沿って(N3→N1b→N4→N5→N6a→N6b→N2) 90Å にわたり移動させるとともに,その余剰エネルギーを用いて ATP 合成に必要な膜内外のプロトン濃度勾配を発生させる.

本研究では,呼吸鎖複合体Iの電子トンネル移動経路をはじめて原子レベルで明らかにし,さらに生体中での複合体Iの高い電子移動効率にタンパク質サブユニット間の内部水が大きく寄与していることを発見した[1]

呼吸鎖複合体Iにおける電子トンネル移動経路

隣り合った鉄硫黄クラスターペア間の電子トンネル移動を考える. そのトンネル確率流密度は遷移確率流密度

により与えられる.ここで |D>,|A>は,それぞれドナー電子状態 ,アクセプター電子状態 ,jは確率流密度演算子である.ドナー,アクセプター双直交化多電子波動関数を原子基底関数で展開することにより,電子トンネル移動経路を得る.下図左に呼吸鎖複合体IにおけるFMNからN2まで電子トンネル移動経路の全体図を,下図右に特にN4→N5,N5→N6aを拡大したものを示す.
Tunnelign Cuttent理論
赤の色強度はトンネル電子がその原子を通過する相対的確率を表す.

個々の鉄硫黄クラスターペア間の電子トンネル移動には,2つのシステイン配位子および1つのMediator残基(上図右青丸)を含む最大3つのタンパク質残基(Key Residues)が寄与することがわかった.多くの鉄硫黄クラスターペアにおいて,2つのシステイン配位子は互いに向きあうように配向することで電子移動に最適な配置になっている.

Mediator残基は,多くの異なる生物種の複合体I一次配列においてよく保存され,またこれらをグリシンに置換した変異体の計算では速度定数が著しく減少することから,Mediator残基が生体中の呼吸鎖複合体Iでの電子移動に不可欠な役割をはたしていることが明らかになった.

Marcus理論

電子移動速度は次式に示されるMarcus理論により求める.

ここで は電子トンネル行列要素,&lambdaは再配置エネルギー,ΔG0は反応自由エネルギーである.

Tunneling Current理論

Tunneling Current理論によれば,電子トンネル行列要素は,ドナー,アクセプターを区切る平面を横切る全電流に等しい. ドナー,アクセプターを区切る平面の位置をドナー近傍からアクセプター近傍まで移動させた時, Tunneling Current理論によって計算された電子トンネル行列要素のグラフを下に示す.

Tunnelign Cuttent理論

平面の位置に関わらず電子トンネル行列要素の計算値はほぼ一定であり,このことからTunneling Current理論が数値的安定性に優れていることが示された.

呼吸鎖複合体Iタンパク質中の水の役割

呼吸鎖複合体Iタンパク質サブユニット間には明確な空間的ギャップが存在し,生体中では内部水で満たされていると考えられる.

サブユニット間の水を考慮しない場合,計算された電子移動速度定数は,律速である最遠距離ペアN5→N6aにおいて9 s-1となり,実験で観測された全体の速度定数(170~104 s-1)を再現できない.一方サブユニット間の電子トンネル経路上に水分子を配置した計算では,速度定数が劇的(102~103倍)に増加し,実験値を再現した.

このことは,トンネル電子がサブユニット間の水を経由することで電子トンネル移動効率が劇的に増加することを示す.呼吸鎖複合体Iタンパク質内部の水は生体中での効率的な電子移動に必須の役割を果たしているがわかった.

電子移動速度のトンネル距離依存性

Tunnelign Cuttent理論

複合体Iタンパク質内部の水を含んだ電子移動速度の対数(log10)は電子トンネル移動距離に対して,経験的に知られた勾配-0.6の直線関係とよい一致を示した. 一方,水を含まない場合,傾きは-0.8~-1と見積もられ,経験則と一致しない.

この結果も,サブユニット間の水が生体中での呼吸鎖複合体Iの効率的な電子移動に必須の役割を果たしていることを支持する


  1. Tomoyuki Hayashi, and Alexei Stuchebrukhov, Proc. Natl. Acad. Sci. USA,  107, 19157 (2010) [pdf]