研究概要

呼吸鎖複合体Iの電子トンネル移動
Alexei Stuchebrukhov 研究室, UC, Davis (2008-現在)

Electron Tunneling Pathways in Respitatory Complex I - PNAS 2010

呼吸鎖複合体I(NADHデヒドロゲナーゼ (ユビキノン))の電子トンネル移動経路をはじめて原子レベルで明らかにし,さらに生体中での複合体Iの高い電子移動効率にタンパク質サブユニット間の内部水が大きく寄与していることを発見した[1]

呼吸鎖複合体Iは,電子伝達系で主要な役割を果たし,老化現象やパーキンソン,アルツハイマー病の原因としても知られている. 呼吸鎖複合体Iは,7つの鉄/硫黄クラスターに沿った90Åにわたる電子移動から得られる自由エネルギーを用いて,ATP合成に必要なミトコンドリア内膜間のプロトン濃度勾配を発生させる.

今回,タンパク質中での長距離電子トンネル移動について,Tunneling Current理論に基づき,電子トンネル経路,電子トンネル行列要素,電子移動速度の計算プログラムを作成した.プログラムはGaussian量子化学計算パッケージと連携することで,任意の量子化学計算レベルで実行可能である.

開発した手法を用いて,原子レベルでの電子トンネル移動経路とトンネル移動に寄与するタンパク質残基を初めて特定した.タンパク質シーケンスアラインメントの結果,それら残基は異なる生物種間でよく保存されていることが確認された.また,タンパク質中の内部水が電子トンネル移動速度を劇的に(102~103)上昇させ,生体中での複合体Iの機能に必須の役割を果たしていることがわかった.

溶液中分子の非調和振動ダイナミクスの実在系シミュレーション
Shaul Mukamel 研究室, UC, Irvine (2003-2008)

Vibrational Delocalization Lengths of Amide Modes vs Frequencies

溶液中での多原子分子の非調和振動ダイナミクスについて,Electrostatic DFT Map法による新しい計算手法を開発した.

タンパク質などの大きな実在系の振動ダイナミクスの取扱いには,振動が局在する領域を量子化学的(QM)に, それ以外の領域を古典力場(MM)で取り扱うのが妥当であるが,全系の非調和振動ダイナミクスの計算には, MM領域として扱われる溶媒や周囲のタンパク質環境の揺らぎによるQM領域の揺動,QM領域間の静電相互作用などが正しくモデル化される必要がある.

一般には,QM領域の揺らぎの時間発展には,各時刻での分子配置に応じた量子化学計算が必要となり,計算時間の観点から系の大きさに限界がある. さらに,溶液中での振動緩和シミュレーションには,多数の振動モードの非調和性やカップリングについて,揺動を含めた高精度な計算が必要となり,これまでほとんど行われていない.

本手法では,振動が局在するQM領域について,DFT法などによって構築した多次元非調和振動ハミルトニアンを, その領域で多極子展開した局所電場に対してパラメトライズすることにより(Electrostatic DFT Map)[3],量子化学計算の繰り返しを行わずに, QM領域の非調和振動ハミルトニアンの揺動(時間発展)を計算することを可能になる. 各時刻での非調和振動ハミルトニアンは,振動CI法と大規模行列対角化を用い,高振動励起状態まで取り込んだ高精度な振動固有関数を基底として展開される. これは東京大学濵口研究室における博士課程の研究に,ポテンシャルの非調和性,電場の多極子項を取り込んだ拡張である [2]). 複数のQM領域の振動子間の静電相互作用は遷移多極子ー多極子相互作用で展開し,遷移双極子ー八重極子,遷移四重極子ー四重極子まで取り込んだ[4]

これらと,MD計算による全系のトラジェクトリ,波束の数値的時間発展計算を組み合わせる事で, タンパク質などの大規模系の全体の振動ダイナミクスの時間発展を高い精度で得ることができる. この手法を用いて計算した,水(HODのD2O溶液および純水)およびタンパク質の線形,非線形赤外吸収スペクトルは,実験値とよい一致を示した. 特に,タンパク質のアミド結合上に局在したアミド振動間の静電相互作用に多極子相互作用を考慮することで,従来から計算されているアミドIに加え, 双極子相互作用の小さいアミドII,III,A領域の振動スペクトルを計算することが初めて可能になった[3].

生体分子のコヒーレント2次元赤外分光(2DIR)
Shaul Mukamel 研究室, UC, Irvine (2003-2008)

2DIR Bandshape and Correlated Hydrogen Bond Dynamics

2次元NMRと原理上類似した関係にある,コヒーレント2次元赤外分光(2DIR)は,その高い時間分解能と多次元のスペクトル情報により,分子の構造や超高速ダイナミクス観測のすぐれた手法として近年活発に研究されている. しかしながら,振動ハミルトニアンの非局在性と複雑さにより,スペクトル解析は困難であり確立されていなかった.

Electrostatic DFT Map,遷移多極子相互作用など新たに開発した非調和揺動振動ハミルトニアンを用いることで, 複数の振動子間の相関,倍音結合音の非調和性の揺動など2DIR固有の情報を含めた計算を初めて行った.

分子内水素移動反応のモデル化合物であるマロンアルデヒドで計算されたトンネル効果に由来する振動準位分裂および非常に大きい非調和性 [5], 水の水素結合ネットワークにおける相関と振動励起子間カップリング,タンパク質アミド結合における複数の水素結合生成消滅ダイナミクスの相関情報[6],タンパク質の2次構造情報などが2DIRのスペクトル解析から得られることがわかった.

また,NMRによって区別されない複数のペプチド2次構造候補が偏光2DIRにより識別可能であることが明らかとなり,タンパク質構造解析への有用性が示された [7]


  1. Tomoyuki Hayashi, and Alexei Stuchebrukhov, Proc. Natl. Acad. Sci. USA,  107, 19157 (2010) [pdf]
  2. Tomoyuki Hayashi, and Hiro-o Hamaguchi, Chem. Phys. Lett. 326, 115 (1998) [pdf]
  3. Tomoyuki Hayashi, Wei Zhuang and Shaul Mukamel, J. Phys. Chem. A109, 9747 (2005) [pdf]
  4. Tomoyuki Hayashi, and Shaul Mukamel,  J. Phys. Chem. B 111, 11032 (2007) [pdf]
  5. Tomoyuki Hayashi and Shaul Mukamel,  J. Phys. Chem. A 107, 9113 (2003) [pdf]
  6. Tomoyuki Hayashi, and Shaul Mukamel, J. Chem. Phys. 125, 194510 (2006) [pdf]
  7. Wei Zhuang, Tomoyuki Hayashi,and Shaul Mukamel, Angew. Chem. 48, 3750 (2009) [pdf]